中高年世代には懐かしい童謡。最近では歌ったり聴いたりする機会が少なくなってしまいましたが、誰もが知っている童謡「叱られて」が、都県境のこのあたりと深い関わりがあるのをご存じでしょうか。毎秋には「叱られて歌唱コンクール」 も催されています。今回は、大正から昭和にかけて和光に住んだ童謡詩人清水かつらと、当地ゆかりの「叱られて」を追いかけてみたいと思います。

郷土の詩人「清水かつら」
 明治31年(1898)下町深川生まれ。7歳から25歳まで本郷に居住。関東大震災で家を失い母親の郷里新倉村(現在の和光市)に身を寄せ、後半生は当地で暮らしました。この母親は第2の母つまり継母。幼くして実の母と生き別れた境遇が情感あふれる詩風となって表われたのかもしれません。彼は武蔵野を、子どもをこよなく愛し、「素直で純真な子どもの心をそのままのばしたい」を信条に「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」はじめ唱歌「みどりのそよ風」など200篇にも及ぶ多くの名作を残したのでした。童謡詩人清水かつらは郷土の誇りです。

男?女?
 かつらとは本名で、戸籍上は「桂」。名前から女性かなと思った方もいるでしょうが、正真正銘男性です。(写真)

住まいはどこ?
 地福寺東側の「池のある家」に十五年。ここには都内からさまざまななジャンルの文化人が訪れ、酒を酌み交わし詩談に興じる様子はさながら「文化サロン」のようだったとか。後に白子橋近くの都県境の家に転居、昭和26年(1951)、53歳でこの世を去るまで和光市で過ごしました。生前の清水かつらを知る人が今も地元にはたくさんいらっしゃいます。

かつらと地域との関わり
 当時練馬区旭町にあった花岡学院(私立寄宿制林間学校)で詩や文学を指導。白子文芸協会会長も務め、地元の「大和音頭」の補作といったことも手がけました。

「叱られて」発表のころ
 大正9年(1920)「叱られて」が掲載された少女号はかつらが編集に携わっていた雑誌で、編集長は「浜千鳥」「金魚の昼寝」「お家忘れて」を作詞した鹿島鳴秋。鳴秋は晩年のかつらと同居、自身が亡くなるまで都県境の家で暮らしたほどの親友でした。少女号の表紙を描いていたのは練馬区旭町に住んでいた本田庄太郎。こうしてみると都県境はまさに多くの童謡のゆかりの地であることがわかります。

「叱られて」の作曲者は?
弘田龍太郎。「叱られて」のほかにもかつらとのコンビを組んで「靴が鳴る」「雀の学校」はじめ数多くの作曲を手がけた人物です。かつらの詩以外の曲は「浜千鳥」「金魚の昼寝」「雨」「春よこい」等。
龍太郎は高知県出身。10歳で三重県津市に転居、後に東京音楽学校に。「叱られて」は彼の母校県立津高校裏手の風景を想定して作曲されたようです。

「叱られて」の舞台
 「叱られて 叱られて あの子は町までお使いに…」どうして叱られたのだろう、何故泣きながらお使いに行かなければならなかったのか。
成増から国道254沿に西へ少し下ると八坂神社。今も木々がうっそうと茂るところ。どうもこの辺りを題材にしているようです(一説には川越の風景だとも)。当時お使いに行かされる子は途中の昼なお暗い道を大変な恐怖心を抱きながら通ったのでしょう。まして夕暮れだったとしたら「こんときつねがなきゃせぬか」というほどですから叱られたって行きたくないですね。
 かつらは少年のころ、母に連れられて訪れた武蔵野の風景が忘れられず、東京近くにこんなにも素朴な自然や生活、人情、子どもたちの姿があったのかと驚き感動して「叱られて」を書いたそうです。日本人の心の原風景が見えてくるような作品です。

「叱られて」いろいろ
 本号エッセイに登場する心理学者河合隼雄さんのフルートでこの秋「叱られて」が聴ける! それに同氏と「サッちゃん」の作詞者阪田寛夫さんとの「子どもの心 子どもの歌」対談も見逃せません。
このほかサンアゼリアの催しの中でさまざまな形での「叱られて」が演奏されるのも楽しみです。コンサートについてはぶんか情報欄参照。

童謡を堪能できる秋の日 
毎年秋になると、全国「叱られて」コンクールが開かれます。「叱られて」が課題曲、自由曲はさまざまな童謡・唱歌。審査が行われるこのコンクールは一般公開しているので童謡をたっぷり聴きたい人にはまたとないチャンス。秋の午後、懐かしいあの日に返って楽しんでみてはいかが。詳細はぶんか情報欄参照。次号にも情報を掲載します。

清水かつらゆかりの地散歩



 東武東上線成増駅の北口が起点。「みどりのそよ風」の碑(写真左)を見たら南口へ。「歌の時計塔」から流れる童謡を聴きましょう。午前8時から2時間おきにかつらの童謡が聞こえます。「叱られて」が流れるのは午後4時。商店街を斜めに抜けて川越街道へ。西へ約100mのところが神社の森。そこを入ってまもなく白子橋に行きつきます。欄干に「靴が鳴る」の歌詞が刻まれていました(写真中央)。この橋手前の細井金物店向かい、赤い建物の場所ががかつら終焉の地です。金物店の奥さんの話では、かつらには会ったことがないけれど、晩年の鹿島鳴秋が店頭の井戸でよく顔を洗っていたのを覚えているそうです。川沿いに「清水かつら」と大きく刻んだ記念碑がありました。さらに突き当たりを右に行けば地福寺。参道への入口付近が「池のある家」ですが、面影はまったくありません。戻って郵便局の角を曲がればすぐ白子コミュニティセンター。ここには「清水かつらコーナー」があり、写真・パネル・レコードのジャケットなどを展示。かつらの葬儀の際葬儀委員長を務めた弘田龍太郎や中山晋平の弔辞には胸打たれるものがありました。コミセンから和光市駅までちょっと距離がありますが、知らない町を探訪しながら歩き、駅前の詩碑(写真右)を見学して終了。だいたい半日コースです。


足をのばして叱られて墓参
清水かつらの墓は駒込の吉祥寺に。吉祥寺は地名吉祥寺由来の寺。また八百屋お七ゆかりの寺。江戸時代には駒澤大学の前身、栴檀林という学問所もありました。二宮尊徳・榎本武揚の墓がある墓地の片隅に「清水かつらここに眠る」の碑とお墓がひっそり。
一方作曲者弘田龍太郎の墓は、吉祥寺から直線距離にして1qちょっとの谷中全生庵に。別名鉄舟寺というこの寺には山岡鉄舟、落語界の大御所三遊亭円朝の墓もあり、お参りする人が絶えません。龍太郎の墓所には遺族建立の「叱られて」の譜面を刻んだ碑が立っています。終生の友であったこの二人が亡くなったあともこうしたほど近い場所で童謡を作り続けているような気がしてなりませんでした。
吉祥寺:文京区本駒込3−19−17 JR駒込駅から徒歩10分
全生庵:台東区谷中5−4−7    JR日暮里駅から徒歩10分 

お知らせ

Book『テレジンの子どもたちから』

《著者からのメッセージ》 林 幸子(新座市片山在住)
 チェコ共和国のプラハから60qにある小さな町テレジンを知っていますか? 現在は人口約7000人のその小さな町に、第二次世界大戦時に総数15万にものぼるユダヤ人が収容され、その中に1万5000人の子どもがいました。家族から離されて「L417」という家で生活していた10〜15歳の男の子たちが、ナチス軍に秘密にしていた雑誌『VEDEM(ヴェデム)』が、奇跡的に今日まで残りました。内容は、仲間や両親のこと、社会、スポーツ、演劇、詩、創作、その他…。子どもたちのほとんどはその後アウシュビッツに送られ殺されてしまいましたが、小さかった彼らの存在は『VEDEM』の中では無限に大きなものでした。ぜひご一読ください。  新評論刊/2000円+税 問合先048‐479‐8793

手作り編@  〇ティータイムのお菓子〇
 トマトの冷え冷えシャパフェ  
トマトは案外フルーティ。サラダや料理だけじゃなくデザートにはならないの? と探したら、シャーベットのようでパフェのようなこの冷菓レシピにたどりつきました。一皿山盛りとか箱売りしている真っ赤な完熟トマトが手に入ったらラッキー!すぐ作ってみましょう。
〈作り方〉@洗った丸ごとのトマトをそのまま冷凍
     A完全に凍ったら水で洗う。するとつるんと皮がむける
     BAをあらみじん切り
     Cグラスにトマト、スキムミルク、砂糖を交互に重ね、
     トマトが凍っているうちに混ぜて召し上がれ!

教室ガイドB  <青樹舎硝子工房>
 こんなところに?と思うような学園町の閑静な住宅街にガラス工房はありました。窯を築いて4年、会社勤めを辞めて工芸家となった貴島雄太朗さんの瞳はガラスみたいにキラキラ。週末に仲間が集まってきて制作しているほか、吹きガラス教室や体験教室も開いています。みな、熱くとろけるガラスを扱う妙味にとりつかれた人ばかり。オリジナルのガラスづくりに熱中しています。身近ではなかなか体験できない吹きガラス、9月にぶんか村特別企画の体験教室を開いていただくことになりました。この機会にあなたもチャレンジしてみませんか。詳細はぶんか情報欄参照。 
アドレス http://www03.u-page.so-net.ne.jp/pa2/yutaro/seijusya/