津田左右吉(つだ そうきち)の名は昨今の新聞書籍広告欄などで目にした読者もいるだろう。今年は生誕150周年。出身は岐阜だが、当地にもゆかりがある。そこでエピソードを交えて紹介してみたい。
津田左右吉とは
明治から昭和にかけての歴史学者、思想家である。津田は1873年に士族の子として生まれ、地元で学びを重ね上京。東京専門学校邦語政治科(現在の早稲田大学政経学部)を卒業し、同大文学部教授となった。東大や早稲田での講義は廊下まで学生があふれるほど人気があった。
「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」が代表作。これらは記紀の文献的批判を行ったとして発禁処分となり津田は有罪判決を受ける。しかしこの津田史観は現在の歴史学では定説となっている。1949年文化勲章受章。1961年12月4日武蔵境の自宅で死去。
墓域づくり覚書
本人の随筆には葬儀から墓地のことまで記されている。「自分の葬式はごく近親の者だけで埋葬して、あとは追悼式でもやってもらえばよい。…宗教的儀式は要らぬ。ただ、つつましやかな荘厳な宗教的雰囲気はいい。できたら音楽でもやってもらえたらと思うが」「暮春はらはらと花びらが柩の上に散りかかる…」のが理想と。墓地については夫人を伴って多摩霊園などを探したが適当な場所が見つからず、没後に縁故を頼りに新座市野火止の平林寺に決まった。大きな杉と松の森に囲まれ、樅や山桜の大木が混じる境内林の西側に墓がある。うっそうとした境内にあってそこだけは明るい。
2010年撮影
墓の設計は「笹村草家人」
津田左右吉の墓は彫刻家笹村草家人(ささむら そうかじん)の設計による。笹村は北アルプス山麓安曇野にある碌山(ろくざん)美術館の創設に尽力した人物だ。墓は古墳時代の石棺をかたどったもので、見るからに重厚な凝った作り。石材は40万年前の箱根火山のマグマの塊といわれる真鶴産本小松石。これは徳川家代々や源頼朝の墓と同じである。真鶴から信州穂高に運ばれ、碌山美術館の関係者らの手によりザク打ちが進められた。ちなみに基礎工事を請け負ったのは朝霞市の建設会社であった。
「無」
墓碑の中央に刻まれているのは「無」のひと文字。自宅の床の間に掲げてあった岳父の筆による軸から写し取ったものだが、思想的な意味などはなく「能力もなく知識も地位も何もかもない〈無〉を書いてもらっただけ」。
石垣にもこだわりが
墓所を囲む石垣は、山梨の谷あいから山石を一つ一つ村人が運び出したものである。前述の笹村草家人と村人3名が平林寺の半僧坊学寮に2週間ほど合宿して石組みを行った。石垣にある表札「津田」の文字は本人の自筆を拡大したもの。
墓の完成
専門の庭師により植樹され、日本的な風趣を重んじた墓が約一年がかりで一周忌に間に合うように完成した。墓には遺骨のほかに歯や遺髪などが納められた。
墓守をしたのは
津田の愛弟子で、津田を終生敬慕し続けた栗田直躬(なおみ)。彼は早稲田大学文学部西洋哲学を専攻し、戸川行男とともに津田に師事した。近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者で、中国上代思想の分野で優れた業績を上げている。津田左右吉全集」の編集はライフワークの一つだった。練馬の自宅から津田のもとに通ったという。栗田亡き後は孫弟子にあたる人たちにより墓守が引き継がれた。「人間性」に高い価値基準を置いた津田に献身的に仕えた栗田は同じ平林寺の津田の墓の隣に眠っている。
※現在、墓所のある上山霊園は「立ち入り禁止区域」。関係者以外墓参できないのが残念だ。
ふるさとでは名誉市民
歴史研究において史料に基づく実証的手法を初めて確立した功績等がたたえられ、1960年に岐阜県美濃加茂市の名誉市民第一号となった。子ども時代については「子どもの時のおもひで」に綴られ、『おもひだすまゝ』という本の付録として79歳の時に刊行された。津田少年が接した原風景や経験が鮮やかに描かれている。
津田左右吉博士記念館
誕生から小学校を卒業するまでを過ごした生家は、明治初期に建てられた民家。現在は下米田小学校そばに移築され、「津田左右吉博士記念館」となっている。遺徳と業績を顕彰し遺品、研究資料、著書等を公開する。少年時代の暮らしぶりが偲ばれる。月曜休館 美濃加茂市下米田町西脇
1471-1
0574-25-2714
會津八一との関係
上石神井駅近くの法融寺に、歌人、美術史家、書家として知られる八一の墓がある。自然石に「秋艸道人」と彫られたもの。その八一の博士論文「法隆寺
法起寺 法輪寺 建立年代の研究」を、主査として審査したのが津田左右吉である。多能多芸の「一々に他の多くの学芸をも包含または浸透させ、それによって渾然たる自家特異の境地を開いている」と評した。のちに二人は新宿中村屋の相馬黒光夫人の依頼で仙台での講演に赴くが、その時の別れが「永訣になろうとは夢にも思わなかった」(津田)と偲んだ。 |